U-hm代表 永野について2

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こんにちは。U-hm(ユーム)代表 永野です。

当サイトをご覧頂き、ありがとうございます。

 

ここでは、

私  永 野 健 一のOFFと今までの経緯を

お伝えさせて頂きます。

 

U-hmにお問い合わせはこちらからどうぞ。

 



 


<マイホーム取得前の若かりし頃の休日の過ごし方>

 

独身時代は東京世田谷区の東松原駅近くに住んでいた事と、仕事の担当エリアが渋谷から西麻布という事から、当時の彼女とのデートは、毎週の様に青山、渋谷、恵比寿、そして西麻布や銀座方面に出向いてました。

 

やる事と言えば、おしゃれななCAFEでくつろぎ、雑貨屋店と洋服を見たり、まだ多くあったレコード店で「掘って」(掘る:レコードを探す行為)いました。

 

映画やアート展へも良く行っています。当時はネットがまだ普及していませんでしたので、雑誌や友達の口コミの情報を元に美味しい料理店めぐりという、良くあるパターンでした。

 

今思うと、よくもまあ毎週の様に同じ様な場所に行っていたなあと思います。

 

お客様の奥様とも、「私も良く〇〇行ってたのよ」と昔話で盛り上がったりもします。

 

今、サーフィンの為に千葉の海近くに住んでおりますが、仕事中は何故か良いのですが、OFFの時たまに「街」に出ると、都会のコンクリートジャングル(笑)に疲れてしまいます。

 

その後、湘南(神奈川県)の海近くに住んでから、段々と「街」遊びの頻度は減りましたが、湘南はまた独特のサーフタウンであり、リラックスできるおしゃれなお店も多かったです。

 

この頃は脚本家を目指し、1年で300本程映画を見ていた時期でもありました。

特にミニシアター系の作品や短編ものを良く見て、この作品の何が良かったのか?何が駄目だったのか?素人の勝手な感想をノートに書いてたりしていました。

それでも、この若い時期に渋谷や青山の様な「街」と、湘南というサーフ文化や、ミニシアター系と言われるアートなど、色々な感覚に触れていた事が、今の仕事にも生きていると思います。

 

そんな私の今の日常です。

 

年に約50回程はBBQ&燻製しています。

 

 

 

<私生活の一部紹介と私の提唱したい「満足の継続システム」>

 

朝は日の出前後、目覚まし時計のアラーム無しで目覚めます。

 

(なので、夜は目がしょぼしょぼ。

仲間や後輩から夜9時過ぎると急に老けると言われる程、電池切れ状態になります。

 

ですので皆様、私へのご相談は出来れば夜19時までにお願いします(^^)/ )

 

妻に、起きてから直ぐ歯を磨いた方が体に良いと言われ、半信半疑ながら、まずは歯磨きをしつつ、インターネットでその日の波と風、干潮満潮、天候をチェックします。

 

そして、リビングの床にヨガマットを敷いてストレッチをします。

 

(特に冬は床の断熱性能の高さを有難く感じ、満足しています。)

 

 

朝のストレッチ。

されていない方には本当にお薦めです。

 

サラリーマン時代に、「朝から爽やかですね」とか、「仕事が楽しそう」と言われていましたが、この朝のストレッチ効果も大きいです。

 

我家ではリビングの中心に鎮座していたテーブルを取り除いてみました。

 

これが、うちのスタイルには合っていました。

 

まず、ダイニングリビングが広く感じます。

 

小さなお子さんがいらっしゃるご家庭でも、一緒に遊んだりできるので、使い勝手が良いですよね。

 

元々リビングのサッシの横幅を、設計士の提案より約30㎝広めにしたのは本当に良かったなあと思っています。

 

テーブルが無くなった事により、今まで見えなかった、リビングの窓の下部分からも庭が良く見え、庭との繋がりをより感じられるようになりました。)

 

極力窓を開け、朝の澄んだ気持ち良い空気を吸い、吐きながら、ゆっくりと体を伸ばしたり、捩じったり。

 

これが気持ち良いのです

 

朝は特に、小鳥の鳴き声を心地良く感じます。

 

風がある日には、庭のヤシの葉が揺れ、その擦れる音がまたいいのです。

 

季節の花が咲き、揺れる姿や良い香りも、幸せを感じさせてくれます。

 

雨の時は、庭の葉やアプローチの黒い那智石達が濡れ、いつもより綺麗に見え、その風情が好きです。

 

 

私は腰痛持ちですが、この心地良い朝のストレッチのお陰で、仕事も遊びも調子良く、欠かせません。

 

玄関ドアを開け外に出ると、朝ならではの庭の緑や花の香りが毎日の様に愉しませてくれます。

 

(庭は少し手入れが掛かりますが、少しでもあるとその手間以上の幸せを感じさせてくれます。)

 

そして週に3回から5回は、家の前の海まで歩いて行き、サーフィンです。

 

妻が一緒の時も多々です。

 

真冬も人が少なく、海が綺麗なので良く入ります。

 

 

海でマイナスイオンのシャワーを浴び、毎日表情が違う大きな空や太陽、波という自然と共に遊ばせてもらいます。

 

海上がりのシャワーでまたリフレッシュ。お風呂上りは、壁や床に冷水シャワーをかけて、カビ対策にクールダウンさせるのが習慣となっています。

 

 

(皆さんはお風呂の入口ドアのどの位置に通気口が付いているかご存知でしょうか?

 

たいていはドアの下に通気口が付いてます。

 

我家では、お風呂の窓を開けての換気はしません。窓を閉めて、お風呂の入口のドアも閉じて換気扇を回しています。

 

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、そうするとドアの下から空気が入って、床が乾きやすくなり、下から対角線上に空気が上部の換気扇への流れて黒カビも生えにくくなります。最近はドアの上部に通気口があるタイプもあるので、ご注意くださいね。)

 

 

さて、いよいよ毎朝の愉しみの時間。朝食です。

 

日本茶やハーブティーの香りも好きですが、朝にはまず、コーヒー豆の入った容器を開けた瞬間のあの香りがたまりません。

 

これは私の役割。特権です。

 

その豆達を手動の豆挽き(ミル)できれいな粉状に挽きます。

 

電動の豆挽き(ミル)もあるのですが、良い香りを愉しめるのと、なんとなく味が違う様に感じるので、手動で挽くのは全く苦にはなりません。これも家ならでの愉しみですね。

 

(使い勝手の良い位置に道具や食材を配置するのは大切です。我家のコーヒー

導線も楽々コースです。)

 

 

家の事は、他にも何かしながら出来るのが良いですよね。

 

我家の豆挽きも5人分まで挽けますが、筒状のシンプルで軽いものなので「ながら」に向いています。

 

庭を眺めながら、IPADでニュースを見ながら、スクワットをしながら、日々自由なスタイルで豆をシャカシャカ挽き、その間良い香りを愉しんでいます。

 

日によって、豆によって、挽く粗さを実験的に変えてみたりもして、味わいの違いを愉しんだりしてます。

 

 

貴方は毎日の朝食が楽しみですか?

 

 

我家の朝食はとてもシンプルです。

 

私がコーヒーを挽き、妻が朝食を準備してくれます。

 

彼女が前日の夜に、ヨーグルト容器へ固く赤い乾燥クコの実をパラパラっと入れておき、冷蔵庫で一晩置いて柔らかくなったものをヨーグルトごと器に盛り付けます。

 

(今まで、海水や紫外線の影響、仕事の疲れで目薬を多用していたのですが、クコの実を食べ始めてから、その回数が減っています。)

 

そのヨーグルト&クコの実に、水に浸かって丸くぷくっと膨らんだチアシードをのせ、マカパウダーかきな粉パウダーを少々とメイプルシロップをかけたものが1品。

 

つまりほとんどスイーツ味。美味です。

 

後は季節により、バナナのスライス、無農薬のリンゴを皮ごとカットしたもの、メロンやブドウなどを添えた、フルーツ盛りが1品。

 

それらをハワイで買って来たり、お客様から頂いた器などに盛り付けます。

 

TVは消して、IpadのAMAZON musicでその日の気分に合う様々なジャンルの音楽を聴きながら朝食を頂きます。

 

その音楽が文字通り、その時の気分にヒットする事がありますよね。

 

これ良いなという曲名を、私は憶えないのですが、妻は曲や歌手が表示されるので、チェックしたりしてます。

 

ところでフルーツはお好きですか?

 

以前は、朝食は野菜派でしたが、ここ数年はフルーツが体に良い?との妻の情報でフルーツ派です。(勿論、日本食が日本人には一番良いとは思っていますが、フルーツだと前後の準備が楽という事もあります。)

 

小さい時、フルーツは食後のお楽しみのデザートで、主食では無い暮らしだったので、あのジューシーな甘さが毎朝たっぷりなのは幸せです。

 

そして、フルーツの酵素が体に良いと洗脳されているからでしょうか。一口味わうと本当に良さそうと体が感じる(勘違いな幸せ?)のです。美味しく、感謝しながら頂いてます。

 

その二品は結局甘い。スイーツ的ですよね。

 

甘くて美味しく、嬉しいのですが本当に体に良いのかな?とも少し思いますが、とりあえず体調はとても良いので続けています。

 

 

そして、これは体には良くないのでしょうが、その後にコーヒーと妻手製のケーキという最高の組み合わせを「体動かしているから良いでしょ?」と自らに言い聞かせ、美味しいーと喜びながら頂く事も多いです。

 

(目を閉じて、舌の上で溶けるのをゆっくりと味わうと美味しさが倍増するので、よくそうしてます。お店でおじさんが目を閉じて至福な表情してたら、周りはかなり気持ち悪いかもしれませんが・・・マイホームなら安心です( ^^)  )

 

思わず笑顔で本当に至福のひと時です。

 

 

その後、サラリーマン時代ではできませんでしたが、食器洗いは私の担当です。

 

流石に朝は洗う量が少ないので、食器洗浄器は使いません。

 

ゆっくりとかかとを上げ下げし、新陳代謝を促す為に第二の心臓であるふくらはぎを軽く動かしながら皿洗いしたりします。

 

 

「家事トレ」と言えるかどうかわかりませんが、家事しながらの軽いエクササイズは、付加価値があって良いですよね。

 

単調になりがちな「家の事」が、「体が喜ぶ事」になり、自分に良い事をしている感があり、精神的にも「いい事」に繋がります。

 

子育てが大変な奥様も、皆で健康に「家事トレ」やっていきましょう。

 

 

家事ではありませんが、朝食後は歯を磨きながらストレッチやスクワットなどもしてます。

 

電動歯ブラシなので、ながら何かをするのが楽なのかもしれません。

 

 

最後になりますが、朝欠かせないのは何と言ってもトイレ。

 

ここは満足の継続システムを導入しました。

 

と言っても大げさな事ではありません。

 

好きな壁紙。アイアンの紙巻器と照明。ニッチ(窪んだ飾りスペース)のモザイクタイル。ニッチの飾り。好きなものをぼんやり眺める事で、毎日の様に満足感が継続します。

 

 

皆さんも褒められるのって嫌いではないですよね。

 

 

そのグッチとは別に、友達やお子さんが来てトイレを褒めてくれる度に、満足感が続いていきます。

 

まさにトイレや庭は我家の「満足の継続システム」の一つです。

 

我家のトイレのニッチは、季節によって飾りを変えたりして愉しんでいます。

 

庭は季節ごとに風情ある佇まいや香りで満足が継続していきます。

 

そして皆に褒められて、また嬉しいが続いていきます。

 

今はちょうどグッチの置時計を置いています。今は壊れてしまって動きません。

 

お客さんや妻のフラの生徒さんにも、「今、時間気にする?フリーな時間が有ってもいいんじゃない?」と勝手にメッセージを込めて、置いておりますが、こないだ「時計止まっているよ」とお子様に言われたので、伝っているかどうかわかりません。

 

以上が朝の日常を通じての自己紹介の一部です。

 

 

私がこの注文住宅に関わる仕事で大切に思ってている事の一つは、この「満足の継続システム」です。

 

勝手に作った造語ですが、注文住宅は非常に高いお買い物です。どうせなら買った時だけでなく、満足感を継続したくないですか?

 

実家の建替えも含めて、施主の立場で2度の注文住宅を経験したからこそ分かった事があります。

 

自分で設計した家に住んでみて、初めて分かった事も色々あります。

 

「もっとここをこうすれば良かったな」「これはこだわって良かった」

 

施主の立場で経験した家づくりの進め方で、感じた事も色々とあります。

 

「施主の立場だと、契約後の打合せはもっとこうして欲しかったな」

 

「工事中はもっとこうして欲しかったな」

 

「自分の時はいいけど、親が建てている間は、もっとこうして欲しかった」などです。

 

注文住宅ならではの、貴方やご家族それぞれの、本当に満足できるマイホームづくりのお手伝いをさせて頂きたいのです。

 

 

U-hmのサービスには、この家を中心とした生活が大切なので、ご紹介させて頂きました。

ハワイはサーフィンだけでなく、近年はハワイ島の大自然も大好きです。

古代日本との共通点も多いところが興味深いですが、まだ勉強中です。

 

 

 

次に仕事面です。

 

こちらは、今回のサービスにとても関わる事なので、略歴をお伝えします。

 

 

<新人営業コンテストでの優勝と生意気な私>

 

最初に社会人となったのは株式会社フォーバルという、現在は東証一部上場してますが、当時は店頭公開を史上最短で果たしたばかりの会社でした。

 

入社時、OA機器販売と通信機器サービスで、当時ソフトバンクとも遜色ない業績の、いわゆる急成長の若い企業でした。

 

仕事はいわゆるバリバリの法人向け飛込み営業で、OA機器や通信サービスの受注を受けるというものでした。

 

毎朝の朝礼は営業所長の怒号や叱咤激励が飛び交っていました。3日間OA機器の新規受注が無いと、皆の前で恥ずかしい罰ゲームの様なものをさせられるという、当時良くあった営業部隊のやり方で急成長していた会社でした。(今は時代に合わせてかなり進化・変化していると思います。)

 

 

全員絶対参加の地獄の朝礼から、皆一斉に仕事開始です。渋谷の事務所から、担当だった西麻布にとにかく誰よりも早く赴き、誰よりも先に事務所に飛び込む。

 

休憩時間や仕事以外の時間も常に営業知識を勉強し、営業手法の反省の繰り返しをしていました。

 

結果、新人部門の営業コンテストで同期約100人の中で優勝できました。

 

この時、「誰よりも努力する」という気概だけは非常に強かったです。

 

 

入社して1年も経っていませんでしたが、その頃から起業家への夢が強くなっていました。

 

結局、そのフォーバルの大久保氏、ソフトバンクの孫氏などと同じく、ニュービジネス協議会に起業家として名を連ねていた植島氏が第二の起業をするとなった時に、自身の勉強も兼ねそちらに参加する事にし、退職しました。

 

退職届を提出した後、上司の計らいで、(大勢辞めていく中で)異例だぞと言われながら社長室に呼ばれました。

 

辞める理由として、改めて将来起業する為だと伝えた私に、大久保社長は「ウチで企業内起業家としてやればいい」と言って下さりましたが、「それでは、フォーバルの傘下という事になりますよね」と社会人1年目の私は生意気に答えました。

 

「お前は馬鹿か」と社長を怒らせてしまい、大人の「分かった。頑張れ」と言うまとめ方で終わりとなりました。

 

 

<騙され?と迷走の時代の始まり>

 

結局そこから三井ホームに入社するまでは、迷走の時代となったのですが、様々な勉強にもなったので、後悔はしておりません。

 

植島氏との新事業の結論は騙された感じになりました。

 

彼とは、前職の担当エリアである西麻布の彼の事務所に飛び込み営業で会いました。

 

植島氏は、東大セミナーという予備校を立ち上げ、本も数冊出版し、ラジオ番組を持っていたりと、とにかく明るくパワフルな人でした。

 

東大セミナーでは通常の塾運営では飽き足らず、当時斬新であったFAXを無料で生徒さんに配り、在宅での赤字添削を始めたのが大きな負債となり、それで経営から追い出されたと言っていましたが、本当の事は分かりません。

 

能力と人脈はあるけれど、今はお金が無い。そういう自分の失敗も豪快に笑って話すような人で、どこか惹きつけられるものがありました。

 

何よりも、当時ニュービジネス協議会に名前を連ねていた事は20代前半の私にとっては、十分な知名度でした。

 

後程出てくる、尊敬する京セラの稲森氏や西武の堤氏が講師役で来る様な、若く有望な起業家の一員であったからです。

 

その彼から、NHK文化センターの様な、新しく社会人向けの勉強と趣味のサークル事業を行うので、一緒にやろうと誘われたのです。

 

 

企業から出資の約束を取り付けてはいるが、当面はお金が無いと言う状態だったので、私が前の会社の株を売却したお金を貸したりもしました。

 

私はまだ20代前半でしたので、勉強と人脈づくりの為という気持ちがあり、ずっとその会社にはいないという思いを彼も承知の上でした。

 

新宿のマンションに事務所を構え、私は営業部長、他に数人のスタッフだけで始めました。

 

結局、講師を招いてのセミナーを数回やったものの、植島氏がやろうとしていた宣伝活動は出来ず、いつしか彼も事務所に来なくなりました。

 

ある日疲れ切った表情の植島氏が急に現れ、事務所を一旦閉める、また連絡するからと言われ、あっけなく終わりとなりました。

 

その後、何回か電話しましたが、全く繋がらなくなりました。

 

貸したお金は戻らず、約束分の給料も数か月間払われないまま、彼は姿を消しました。

 

そうなる前、事務所に明らかに堅気でない雰囲気の人が植島氏を探しに来たりしていたので、私はこれ以上関わるのは止めようと思いました。

 

 

仕事もお金も無くなった私は、本当にお世話になった方と、各大学のサークルをネットワークした新事業計画を練り上げました。

 

最初の会社の上司(当時大阪の営業所長)に事業計画をプレゼンし、帰りの飛行機に乗る前にやっと当時4800万の出資の約束を取り付ける事に成功しました。

 

しかしそれは彼の保有していた株の売却を資本にしており、結局すぐに株が暴落してしまい、一度サークルのTOPを集めたきりでその話は無くなりました。

(恐らく20代半ばの当時の私では、例えスタート出来たとしても、その事業は失敗していたと思います。)

 

 

落ち込んでいた私は、当時付き合っていた年上の女性からの薦めもあり、まず就職する事としました。

 

伊藤忠商事や日商岩井等が出資する通信衛星を利用した双方向メディア事業の会社で、新事業を立ち上げたばかりでした。

 

所謂コンテンツからの企画提案を学ぶ事が出来ましたが、個人向けではなく、企業向けに通信衛星による双方向のサービスというのが、自分のやりたい事とズレていると思った事と、経営に不安を感じた為、早々に退職しました。

 

その判断は当たっており、1年程でその会社は倒産しました。

 

 

付き合っていた彼女とも別れ、すっかり迷走中の私を見兼ね、下北沢界隈の飲み仲間であった、いすず自動車の営業所販売で7年連続TOPの実績を持つ大先輩の推薦で、その方の元部下が経営している会社で働く事になりました。

 

アメリカ5大財閥の一つが母体となっていた、インターフィールド コーポレイテッド という会社で、こちらも今はもう無い様です。

 

奇しくも後の勤務先となる三井ホームと同じ、西新宿の三井ビルに会社がありました。

 

その会社が、当時としては新しい音声応答コンピューターシステムを使った新事業を企画しており、その主要メンバーとして新しいメディアサービスの企画提案をする日々となりました。

 

インターネット普及前の時代でしたが、刻々と変化する時代の流れに合わず、この事業も撤退となりました。

 

 

最初の会社を退職してからの経験は全て、新事業に関わるものでした。

 

大企業や起業家として成功している人達が、これからの時代はこれが成功すると新事業を計画し、数億や数千万円の投資をしたにも関わらず全て失敗、というものでした。

 

私は新規事業を成功させる事の難しさを感じました。

 

 

その時の私には資本もありませんし、これがやりたいという事もありませんでした。

 

 

<新たな志を持ち、再度営業コンテストでの優勝。>

 

先程の会社にて、既存の主要事業であった個人向け情報サービス(パソコンと情報検索サービスを付加した商品)の一営業マンに戻る事になりました。

 

無料でインターネット検索が出来る今では考えられませんが、電話でアポイントを取り、コンピューターと情報検索サービスをセットで約70万円か約40万と言う二つのパッケージで契約受注を頂くという仕事でした。

 

最初の会社程ではありませんが、ここも毎日の様に結果が厳しく求められる営業部隊でした。

 

対外的には週休2日制でしたが、上司が本当に休まず、高いノルマが厳しくて二三か月休み無しという営業マンも多く、今で言う超ブラックな状態でした。

 

私は週1日は休んでいましたが、そういう営業マンはとても少なかったです。同僚や後輩の営業マンは常に会社に不満を抱えていましたが、励まし合ってもいました。

 

ブラック企業でしたが、外資系という事もあり、若くても仕事が出来れば認めてくれる風土があり、私は次の様な、今思うと馬鹿な目標を立てました。

 

 

週に2日休み、TOPセールスになり、休んでも売れるという事を実証しよう。そのノウハウを皆に伝えよう。それでこの会社をもっと良くしよう。

 

そう決断しました。

 

とは言え、いくら売上げていても休ませてくれるような上司ではありません。

 

朝だけ出社し、売れている者は出先からの直帰だけは許されていたので、アポイントがあるという事にし、その後は勝手に休んでいました。

 

しかし、嘘を付くのが下手という事もあり、当然の如く3週間もしないうちに上司にバレました。

 

みんなにとても怖がられていた上司でしたので、相当怒られるだろうなと覚悟して呼ばれた個室に入りました。

 

ところが、その上司がかなりショックを受けており、「なんでお前がそんな事をしたのだ」と、怒るというよりは理解に苦しむ様子を見て大変申し訳なく思い、反省しました。

 

黙って休んだ理由をきちんと伝えた結果、社長宛に始末書を出せとだけ言われました。

 

 

その時私は、いくら会社を良くしようと本気で思っていても、黙って休むのは良くない。そういう当たり前の事にやっと気付き、深く反省しました。

 

けじめとして始末書に印鑑を押す代わりに、親指をナイフで切り、血判を押して提出しました。

 

京セラの稲森和夫氏が会社を興した時、仲間と血判で誓い合ったという事を本で読んでいたのに影響されたのは間違いありません。若くて血気盛んでした。

 

 

それでも、会社を良くしようという思いは変わりませんでした。

 

 

週休二日制をきちんと実行してでも数字は上がる事をいつか証明しよう、という事も諦めていませんでした。

 

そしてもう一つ、改善をしたい事がありました。

 

みんなが気づき始めていて、よく愚痴を言っていた事です。

 

ご成約頂いた後、営業担当はその契約に関わらないシステムでした。それはそれで効率的ですし、営業マンは新規受注だけに集中できました。

 

しかし、営業フロアとは別の階のお客様窓口で、怒鳴ったり、怒っているお客様の姿を何回か見かけたりする事がありました。

 

他の営業マンもお客様のクレームが増えている事に気付き、この会社そろそろまずいかもね、とも言ってました。

 

このままではこの会社は潰れる。

 

私はそれを改善したい、と本気で思いました。

 

今まで新規事業の一社員として、全てが駄目になるのをただ見てきました。

 

今度は自分が変えよう。

 

この会社の原資はアメリカの財団だ。そして、今この日本での事業自体が頭打ちとなっているのは明白で、きっと良いものは良い、駄目なものは駄目とシビアに判断するだろう。もし今の経営陣が改善しなくても、私に力さえ付けば、事業の改善計画をアメリカに提案すれば良い。

 

本気でそう考えていました。

 

自分ならそれが出来ると。

 

夜は毎日の様に事業改善策を練っていました。

 

でもまずは実績を上げ、自分に力を付けなければ。

 

強い動機を基に、目の前の営業活動に取り組みました。

 

その結果、格違いの成績で連勝だったベテラン営業マンに僅差で逆転勝ちし、営業マンの数は300人程度でそんなに多くはないのですが、なんとか営業コンテストで優勝し、ハワイのパーティーで祝勝されました。

 

確かに前回とこの会社での2回の営業コンクール優勝は、自信にはなりました。

 

私よりもっと頭が良く、知識が豊富で、話術に長けた人材は沢山いました。

 

そういう中で、気持ちの強さだけは負けなかったのと、常に反省と改善策を紙に書いていたのが良かったのだと思います。

 

でも、それだけです。

 

その時の私は単に契約を頂くまでのノウハウが身に付いていただけでした。

 

そして、二つの会社での営業コンテストでの優勝は、営業は契約前だけにフォーカスすればいいという組織体制下でのものでした。

 

 

私は仕事のあるべき姿。営業マンという奥の深さを全く体現していませんでした。

 

 

特に後述した会社では顧客満足度が低いという事に気付いていましたが、会社側は営業マンを受注活動に専念させる為、契約後のフォローは完全にアフターセクションに引き継がれるというシステムでした。

 

(今住宅業界でもこの契約前と契約後を分ける事で効率化を図ろうとしている風潮があります。この事も私がU-hmを始めた理由の一つにもなっています。)

 

☞何故? U-hmを始めたのか?3つの理由。

 

 

先述の始末書が血判であった事に気付き一目置かれたのか、単に成績が認められたのか、他に人材がいなかったのか分かりませんが、新設する広島営業所の所長に異例の若さと速さで任命されました。

 

 

<初めての、大きな挫折>

 

営業所新設というのは、本当に色々な業務が求められました。

 

事務所を整え、机や植栽のリース契約をし、現地採用の募集と面接、教育も営業所長の仕事です。

 

東京では、東京モーターショーなど大きなイベントに出店し、アンケートで見込客を集めて電話でアポを取る様な仕事でしたが、そういうイベントも営業所長が全て、開拓、企画、運営しないといけません。

 

そして、毎日の営業マンの管理です。

 

それでも、この会社を変えてやろう。完全週休二日でも売れる組織を、ここ広島から作ろう。この広島営業所で週休二日を実行し、成績を上げ力を得て、顧客満足度をもっと上げられるシステムを造ろう。

 

そういう高い志があったので、全く苦ではありませんでした。

 

 

ただすぐに、私とほとんどが年上だった中途採用者達との意識や目的のギャップを感じました。当然と言えば当然です。

 

私がこの会社を変える!広島から改革するぞ!といくら伝えても、入社したばかりで特にこの仕事が好きで来た訳でもない、と言う採用者が殆どですから、皆その場では頷きますが、心からの共感や動機付けとはなりません。

 

 

そこで、皆がそれぞれの目標を持つ為に営業活動を一旦中止しました。

 

最初に各自が雑誌などから、とにかく自分自身がやりたい趣味や行きたい旅行、買いたい物や車などの写真を切り取り、大きな紙に貼ってまとめる作業をして貰いました。

 

 

皆これには苦戦していました。普段からその様な明確な目標や欲求が無かったからです。それでもなんとかビジュアル化し、事務所の壁に貼りました。

 

この作業は好きな音楽をかけ、和気あいあいな雰囲気の中で行う事が出来、結果営業所の結束にも繋がり、良い雰囲気となりました。

 

 

いよいよ次の段階です。

 

私自身は決して特別な人間ではない。そんな私でも成績を上げられたのだから、売れる営業技術さえ身につける事ができれば、誰でも良い成績は上げられる。

 

 

その為に、当時は珍しかったのですが、ビデオを導入したコーチングスタイルで、とにかくつきっきりで営業トークを特訓し、それを録画しては見返すと言うの事を、毎日何時間も繰り返しました。

 

 

結果どうなったでしょうか?

 

 

短期間でとても伸びたメンバーがいて、一定の効果はありました。

が、そうではないメンバーもいました。

 

 

だんだんとその差が開き始めました。

 

私は更に、特訓が必要だと思い、伸び悩むメンバーに対し、一生懸命細部にわたり反復練習をしました。

 

 

それでも、その人達はなかなか成果が上がりませんでした。

 

営業所全体の数字も最初は良かったのですが、その後は平凡なままでした。

 

 

(こんなに教えて訓練している所は他に無い筈なのに、どうして成果が上がらないのだ・・)

 

 

自信満々だった私でしたが、いつしか迷いが出てきました。答えが見つからないまま、それでもそのコーチングスタイルで営業トークの特訓をするという事を続けるしか、当時の私には考えられませんでした。

 

 

そんな中、事件が起きました。

 

 

新規営業所員として、東京から2人のメンバーが私と一緒に広島入りしていました。

 

二人とも東京では成績が低迷していました。

 

一人は私の1年上で、もう一人は同い年でした。

 

1年上の彼は本当に頑張り、成績も伸び、営業所を支える2本柱のうちの一人となってくれました。

 

 

しかし、同い年の彼がある日突然無断欠勤をしました。

 

彼はとにかく明るく、周りに良く気を使うムードメーカーでした。

 

丁度イベントの準備や人事採用と重なり、とても忙しい時でしたので、その日は連絡もせずに過ぎてしまいました。

 

翌日も出社しなかったので、どうしたのだろうと2回程電話しましたが出ません。

 

とうとう無断欠勤3日目となり、やはり電話にも出ません。

 

心配になり、彼の賃貸マンションの住まいに行き、インターホンを押しても反応は有りません。

 

社宅扱いでしたので、管理人から鍵を借りる事ができ、嫌な予感と共に私は玄関のドアを開けました。

 

 

ワンルームの部屋は真っ暗で、直ぐに異臭が鼻をつきました。

 

閉じられていたカーテンの内側に座っている人影がありました。

 

 

私は彼の名前を呼びましたが、返事はありません。直ぐにカーテンを開け、彼がただ力なく正座しているのを見て、最悪の事態では無かった事にホッとしたのを今でも覚えています。

 

 

「どうしたの?」

 

 

私の問いかけにかなりの間が空き、もう一回「具合でも悪いのか?」と聞きました。

 

しばらくして、無償髭が伸びた彼が口を開いてくれましたが、あの明るいムードメーカーだった彼とは程遠い声色と表情で、彼はついに泣き出しました。

 

 

「もう自信が無くなったのです。」

 

 

私は彼の話をじっと聞きました。

 

 

周りや自分より後に入ったメンバーが成果を出す中、マンツーマンの特訓を受けても成果が出せない。永野さんにあんなに教えてもらっても自分は駄目なんだ。そして、いつしか眠れなくなり、深酒が止められなくなっていったと。

 

兆候はありました。特訓中、お客様に資料を説明する際に掌を上にして、指はピシッと伸ばすという基本的な動作が出来ず、指が小刻みに震えていたのです。

 

私は彼が快闊な様に見えて、実はとても緊張屋さんという事も知っていたので、最近成果が出ない中、所長の私との訓練だから緊張しているのだろうという程度にしか思っていませんでしたが、それがアルコール中毒の症状だったのかもしれません。

 

何よりも、彼の抱えている心の問題に気付く事が出来なかったのです。

 

東京から、友達もいない広島に一緒に来て、最初の頃は良く一緒に飲みに行きましたが、そのうちに私の意識が中途採用社員を一日でも早く成長させるという方向に完全にシフトしていき、気付けばそんな時間が無くなっていました。

 

彼のマンツーマン特訓を少し前に再開した時に、以前は無かった指の震えという症状が出ていたのです。

 

その心の叫びに気付かず、緊張しているだけだから、更に練習を重ねて成果を出せば、そんな緊張も無くなるだろうと言う程度にしか思っていませんでした。

 

結局彼は辞める事になり、その営業所を去っていきました。

 

今では、あの時もっとこうすれば良かったと色々と考える所がありますが、その時は、自分があの明るい彼をこんなに追い込んでしまったという事実がショックで、思考回路が止まっている状況でした。

 

所員達にも動揺が走りましたが、二人の大黒柱がなんとか営業所を支えてくれているという状況でした。

 

そして次々に試練が来ました。

 

我々と同時に関連会社がすぐ隣で営業所を開設し、最初は競い合う感じでしたが結局撤退となりました。そのお別れ会の時に、その関連会社所長が「専門家がこの事務所は運気が悪いと言っていた」という様な言葉を私の所員に伝え、去って行きました。

 

私は全く気にしていませんでしたが、それを気にする人もいた様です。

 

次に本社から、その会社では恒例である、成果を出していない者は切れという指令が来ました。

 

私が絶対に成果を出させると言ってずっと突っぱねていましたが、段々とそうもいかなくなってきました。

 

駄目な者は駄目。だからどんどん辞めさせて、代わりに新しい人材を採用していく。それがその会社のやり方でした。100人入ったら半年後に残っているのは10人前後という感じでした。

 

キャノンの出資を受けてはいましたが上場している訳でもなく、親会社は外資という状況下、見込みがないと踏んだ社員には、上司がどんどんとプレッシャーをかけ辞めさせる、という暗黙のマネジメント業務が当然の様に繰り返されていました。

 

私は新しい営業所全員で圧倒的な成果を出す事によって、その様な体制を変えられると思っていました。しかし営業所新設当初は成績が良かったものの、先の事件後私の迷いもあり、成績は平凡なものとなっていました。

 

私は本社の圧力に力なく屈しました。数人と個別面談を行い、直接引導を渡す事となったのです。

 

今でも覚えています。

 

「永野さんがそうおっしゃるなら、もうしょうがないです。諦めます」

 

年上でしたが、とても真面目な好青年という感じの方の言葉です。

 

それは、「永野さんが諦めるなら、もうしょうがないです。私も諦めるしかないです。」という彼の思いでした。

 

それだけ、二人で練習を積んだ時間がありました。

 

そうやって、数人の首切りをせざるを負えませんでした。

 

さらに、全国的にTOPクラスの成績まで急成長してくれた女性社員も体調不良で休みがちになり、頑張って出社してもやはり体調が悪くなり、早退すると言う事が続きました。

 

以前から持病のメニエール病があるとは聞いてましたが、それが再発し結局、彼女も辞めていく事になりました。

 

それも原因は私にありました。

 

最初の頃は本当に活き活きと一致団結していて、営業所の雰囲気はとても良かったのですが、私がそれを維持させる事が出来無かったのです。

 

そして、とうとう仲間の首を切らざるを負えないという状況となり、営業所の雰囲気も業績も悪化していきました。

 

そんな中でも、彼女はかなり頑張って営業所を支え、無理をしてくれていました。その疲労と、理想的だった職場が変わってしまったという事が彼女に相当のストレスを与えてしまっていたのです。

 

彼女は辞める時に、私がいたから頑張れたという様な事を言ってくれましたが、私は申し訳ないと言う思いで一杯でした。

 

 

おわかりの様に、その時の私は営業所長としては末期症状の状況でした。

 

私を評価してくれていた会長が社長に「永野を東京に呼び戻せ」と伝え、私は広島を去る事になりました。

 

営業所長をクビになったのです。

 

そして私は自信も気力も無くし、まもなく退職する事になりました。

 

20代後半で大きな挫折感を初めて味わったのです。

 

 

<気概喪失。でも働かなくてはいけない>

 

その頃には、あれだけ起業に燃えていた気持ちもすっかり萎えてしまいました。

 

今であれば、何がいけなかったのか?どうすれば良いのか?冷静に分析し、もっと視野の広い改善策を講じる事が出来ると思います。

 

それまでの自分であれば常に反省し、その対策を紙に書き出し、これならば絶対に改善できるというところまで検証して、それらをいつもビジュアル化(計画)してきましたが、その時はそういう気持ちにもなれませんでした。

 

ただ先ずは、きちんと就職しなくてはという思いだけがありました。

 

今までは独立志向が強く、その勉強になるようなニュービジネスの仕事ばかりを選んできましたが、もうその気概も無くなっていました。

 

ニチワ電機株式会社という、ホテルやレストラン、病院など向けの業務用電気厨房機器のTOPメーカーで5年程お世話になりました。

 

精神的にそういう状況でしたので、今までの自分と違い、迷いながら日々の仕事に追われている感じでした。

 

ただ、この会社は素晴らしい会社でした。

 

実際今までの会社と違い、地道に一つ一つ顧客の信用を得ていくリピート性の強い事業で、国内のTOPシェアを築いてました。

 

当時O157に代表される食中毒の事件などがマスコミで大きく取り上げられ、ホテルやレストランの厨房環境の悪さが菌を激増させてしまっている事が問題視されていました。

 

ニチワ電機は単に厨房機器メーカーで業務機器を卸すだけでなく、厨房の環境を改善する為のコンサルティング業務を業界で初めて事業化しようとしていました。

 

その中心となったのが西 耕平氏、私の入社面接をしてくれた人物です。

 

西氏は若い営業マン時代から、バイブルサイズのシステム手帳にこつこつと自分が分からない事を書き貯め、知識をどんどん増やし、厨房業界をもっと良くしようという情熱を持ち、私が退職する頃には新調理システムの講師をする先生と言わる程の存在になっていました。

 

本当にコツコツと努力を積み上げて来た方を間近で見られた事は光栄でした。

 

一方その仕事に対し、どうしても自分には情熱が沸き上がらない状況が続き、このままで良いのか?悩みながら日々仕事をしていました。

 

商品を納品するレストランのメニューなどに合わせ、より効率的な厨房機器のレイアウトを先ず自分で設計提案し、それが採用されれば社内設計部門に工場での製作用に詳細図面化をしてもらう、という仕事がメインでした。

 

現場に入ったり修理に立ち合う事も多く、それはとても勉強になりました。

 

でもどうしても、私には西氏の様な情熱が沸いて来ず、フラストレーションも溜まり、当時皆が理不尽に扱われている、とストレスを感じていた上司との衝突をきっかけに退職する事になりました。

 

 

私は陰口が好きではありません。勿論暴力は振るってはいませんが、皆の前で衝突をした事は申し訳無かった、と今は思っています。

 

恐らく自分が思う様に生きていない、というフラストレーションが続いている精神状況があったのだと思います。

 

私は自分がどんどん人として弱く、器が小さくなっている気がしていました。

 

 

<最後の仕事場として、注文住宅業界を選ぶ>

 

退職後、じっくりと自分と向き合う時間が取れました。

 

30代となり、もう本当に一つの仕事を貫かなくてはいけない。

 

そうしないと、全て中途半端な状態で一生が終わってしまう。

 

 

前述の西 耕平氏の様に、資格が無くても、いち営業マンから地道にコツコツと努力を重ね、情熱を持ち続け、その業界で押しも押されない存在になりたい。

 

そう思う様になりました。

 

 

  ニチワ電機での5年間は、クライアントと調理現場を知り、導線を考え、厨房という限られたスペースの中でレイアウトを設計し、商品化するという仕事でした。

 

設計するという作業は楽しい時間でした。

 

厨房だけではなく、病院や老人ホーム、デイケアや特別養護学校等に温冷配膳車も数多く納品してましたので、厨房だけでなく、トイレを含むバリアフリーの導線もとても興味深く、毎回の様に厨房以外の設計図面を見せて貰ったりしていました。

 

また、当時付き合っていた彼女がカラーコーディネーターの資格を勉強していた影響で、私もそういう教材を読む様になり、カラーセラピーにも興味が出て、特別養護学校や病院等にもっとこういう色合いを使ったりしてみてはどうだろうか、と勝手に考えたりしていました。

 

特に親が入院した時には、本当にそう思いました。今では少しずつカラーセラピーが病院等にも導入されていますが、当時は非常に少なかったのです。

 

また、後半はレストランも担当させてもらえる様になり、有名店のシェフと話をしながら、厨房の設計をしたり、そのお店のメニューに合わせた厨房機器の開発にも携わらせてもらう機会がありました。

 

毎回の様に厨房から出て、客席側の空間やインテリアを見るのが好きでした。

 

機能重視の無機質な厨房から客席を見ると、あそこのインテリアや導線をもうちょっとこうすれば良いのになあ、同じコストでこうする事も出来そうだけど、とついつい勝手に厨房とは違う方に興味が沸いていました。

 

 

最後の仕事場として何が良いのかを考えていた時、何かトータル的なデザインやインテリアに関われる事がしたいと思う様になりました。

 

店舗設計とも思いましたが、予算とスケジュールが本当にタイトで、時代的に設計士がやりたいデザインの実現はなかなか難しいという裏舞台を知っていたので、それは考えませんでした。

 

そして、レストランのメインは何と言っても料理です。

 

日本でも有数の老舗の日本料理店や本場イタリアンの日本店、料理の鉄人のお店などの厨房に入らさせて頂くと、皆さんが若い時から本当に厳しい修行を積んで来た事が分かります。私が、その年齢からでも丁稚奉公をしたいと思える程に強くやりたい事ではありませんでした。

 

次第に自分のやりたい事が明確になっていきました。

 

空間とインテリアのトータル的な提案が出来て、人を感動させるもの。

 

 

最初にやりたいと思ったのは、旅館やホテルの経営です。

 

おもてなしの心と、空間とインテリア、食などが正にトータル的に重なり、お客様が笑顔になれる。

 

ただ、その分野で私がどうやってトータル的な事業に関われる様にまでなれるのかが、その時は一本の筋として見えませんでした。それでもいつかやってみたいという夢は今でも持っています。

 

(後に、規模はとても小さいのですが、リゾート型の賃貸併用住宅を建て、空間やインテリアの提案により住んで頂く方が笑顔になれるという形によって、この時にやりたいと思った事を小さく実現できました。)

 

 

そして、注文住宅の営業こそが、その家族にとって世界で一つのマイホームをトータルコーディネートする仕事であり、しかも感動して頂ける仕事である。まさにこれだと感じました。

 

今までの営業活動の集大成を築き上げるのに相応しい仕事だと。

 

本当に久しぶりに情熱が沸いてきたのです。

 

 

<注文住宅の第一線で16年。そして今後>

 

どのハウスメーカーがいいのか?最初は外断熱が良いと思い、ネットや書物、住宅展示場廻りなどで調べましたが、各社きちんとした理論武装があり、構造面もどこも良く感じられました。

 

最終的にその当時センスが一番良いと感じた三井ホームを選びました。

 

前述の西氏に学んだ通り、入社前から分厚いシステム手帳の半分程は勉強した事で埋め、入社後は生の現場を通しての知識や反省などをこつこつと書き足し、積み上げていきました。

 

私は物覚えが悪く、一度書いただけでは覚えられませんので、接客やお客様との打合せ時には、正にバイブルの様にそれを使っていました。(この数年はiPadです。)

 

 

最初の10年は本当に色々とありました。

 

私のミスでお客様を怒らせてしまったり、工事担当のミスをカバー出来なかったり、それでも何とか最後はお客様に笑顔になって頂ける様に頑張ってきました。

 

自身の経験がまだ少ないのに、契約後の打合せで惰性的な仕事をしたベテランの設計士(建築家)に「そんな気持ちで私のお客様の前に立たないで下さい!」と思わず声を上げてしまった事もあります。

 

恐らく、この業界に夢を見て入った者の多くが疑念や不満を感じるであろう事柄に、どう対処すべきか悩んだ時期もあります。

 

幸い、今まで色々な経験をし、どんな業界や会社でも多かれ少なかれ様々な問題を抱えている事を知っていましたから、それらの問題に対し、自分の中でお客様の為にどう善処すべきか、という試行錯誤をしてきました。

 

(曖昧な表現となっていますが、私は業界の裏事情を暴露する事は意図しておりません。各社、業界の問題改善を図っており、U-hmのサービスがその一助になる様に努力して参ります。)

 

 

また、プライベートでも色々とあり、仕事に影響しなかったかと言うと嘘になってしまう時期もありました。

 

色々な事があっても、続けて来る事が出来たのは本当にやりがいのある仕事であると、毎回の様に実感できたからです。

 

自分のプランやアイデアが採用される事も多く、お客様がお住まいになった後に、「永野さんの言う通りにして良かった」とご満足の声を頂けると、本当に嬉しいものです。

 

 

そうやって10年程経ち、やっとこの仕事が分かってきた様に感じていました。

 

上司や人事には、自分は出世は全く考えてなく、ずっと一営業マンとして、直接お客様と接していたいと伝えて来ました。

 

最前線で家づくりのプロジェクトリーダーとして携わって来ました。

 

 

最後の方は組織の事情もあり、いち営業マンという形では難しくなりましたが、それはそれでチーム員やモデルハウスの女性スタッフ陣と共に成長する、という大きなやりがいがありました。

 

20代の時の営業所長としての失敗を、今なら全然違うやり方で成功させられる。そしてその時とは、会社や商品の信頼度が全然違う。もう一回サラリーマンとして、より良い組織づくり、より良いお客様満足の為に尽力してみたいという気持ちも出始めていました。

 

 

そんな状況で勤務15年が経った頃、熊本震災後のボランティア活動に参加した事が独立の本当に大きなきっかけとなりました。

 

U-hmをどうしても立ち上げたくなったのです。

☞詳しくはこちら。「U-hmユームを何故始めたのか?その3つの理由。」

 

今まで100通り以上の注文住宅に携わって来ました。

 

この100という数字はその会社によって難易度が違うと思います。昔からの営業マンで、賃貸住宅や建売・売建も入れれば300以上の契約をされている方もいらっしゃいます。

 

私も二つの会社で契約の鬼と化し、営業コンテストで優勝もしましたが、その時は本当に受注の事ばかり考えており、とても自慢できるものではありません。

 

この16年間の方が余程、お客様にとって何が良いのか?を考え、失敗と反省、改善を繰り返してきた、と堂々と言えます。

 

 

そしてその前の5年間で、厨房レイアウトを設計してきた経験もとても勉強になっています。

 

ご存じの方も多いと思いますが、厨房は戦場です。1分、いや数秒を争う現場です。お客様と一緒に考えたレイアウトが即売り上げに影響する。そんなシビアな仕事から学んだ事も大きいです。

 

 

家の建替えを、施主の立場と、(実家故に)少し俯瞰して見れる第三者の立場の双方で経験した事で、今までのハウスメーカー側の立場では気付かなかった事が色々とあります。

 

 

そして土地を探し、自分で設計し、住宅ローンを背負いマイホームを建てた経験から、施主視線で色々と感じた事があります。

 

 

自宅のすぐ隣を、インテリアや空間を特徴としたコンセプト賃貸で運営してきた事も自信に繋がっています。自分が空間とインテリアをデザインし、そこに住む方ととても仲良くなり、その方達からもフィードバックを頂けたからです。

 

それらをフル動員し、素直に反省すべきは反省して改善し、U-hmはより進化していきます。貴方やご家族が契約後も住んだ後も満足できる家づくりをサポートしていきます。

 

 

長くお付き合い頂きありがとうございます。

以上が「U-hmとは?永野について」です。

 

 

 

U – h m 株式会社

代表取締役 永 野 健 一

 

※U-hmサービスの特典(無料)とは?そのメリットとデメリットはこちら?

※U-hmユームを何故始めたのか?その3つの理由。

 

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